途切れず積もる想う日々


 入団後半年経過した新兵達が自主的に立体機動の訓練をしたいと団長であるエルヴィンに掛けあい、是との返事を貰えたとの話がペトラの耳に入ったのは、外からの喧騒が開け放たれた窓から届くリヴァイの執務室だった。
 常日頃から塵一つなく整えられた清浄な空間は、部屋の主であるリヴァイの性格の大いなる現れだ。
 そこに入室する前のペトラは衣服の埃を払い髪型に気を付けて、清潔且つ整った身嗜みで彼の前に現れるように心掛けている。先程も、ノックをする前に何度も髪を撫でつけ兵服に汚れがないか散々確かめた。ブーツの裏すらもだ。

「日々の訓練に加えて自主的にもだなんて、新兵の子達って若いなー 元気だなー 可愛いなー」
 窓際に立ち、中庭で装置の確認をしている彼らを見て眩しそうに目を細めているペトラ一瞥したリヴァイが言葉を掛ける。
「お前も充分そうだろが……」
「あっ、兵長ってばまた私を年下扱いされてる」
「実際に年下だろ。……かなり」
 思わず軽く頬を膨らませたペトラははっとして表情を戻し、書類に書きつけをしている彼がこちらを見ていないことを確認した。こんな仕種を見られでもしたら、また年齢差を指摘されてしまうと焦っていただけに胸を撫で下ろした。
 リヴァイの言葉通り、ペトラは調査兵団に入団してから片手の指の数の年も経験していないまだまだ若手な調査兵だ。それでも壁外調査の度に討伐数と討伐補佐数の実績を伸ばしていて、精鋭と呼ばれる日も近いだろうとのもっぱらの噂だ。それに浮つく事無く真剣に彼の元で鍛練を重ねて僅かずつでも成長している、と自負をしている。
 入団したばかりで、壁外の真の恐怖を知らなかったあの頃と違い、精神的にも肉体的にも大人に近づいた。
 けれど、ペトラが時を重ねればリヴァイもその分重ねる。生ある限り、二人の年齢が重なることは決してない。わかっていても、それがペトラにとってはもどかしい。追い付きたい。なのに追い付けない。物理的にも精神的にも、心の距離も近づきたい。少し近づけたけど、もっともっと。

 かつてのペトラは、リヴァイへ向かう感情は、敬愛だとずっと思っていた。いや、無意識下で思い込もうとしていたのかもしれない。
 気がつけば彼を勝手に追ってしまう視線も、姿を捉える度に速まる鼓動も、名を呼ばれるだけで喜びで溢れる心も、全てがそうじゃないと訴えていたけれどペトラは己の感情を認めずにいた。
 そんな風に過ごしていたのに、リヴァイを好きになり過ぎてとうとう自分を誤魔化せなくなったペトラだったが、想いは秘めたままでいようと思っていた。
 リヴァイより十以上も年下な自分がどれだけ想いを深めても相手にされないに決まっている。だから男女の関係を持つ日が訪れるとは考えたこともなかった。
 異性としてだけでなく、上官として敬愛する心も多分にあった為に、そんなことは仮定の話でも恐れ多いことだった。ただ、彼を密かに強く想うだけでペトラは強くなれた。
 人類の為に心臓は捧げた。けれど心は、只一人、ペトラにとって唯一の人に……
 上司が執務に没頭してる最中なのに何を考えているんだろう。過去を追憶していたペトラが慌てて気を取り直そうとした時に、椅子から立ったリヴァイがソファへと移動してどさっと無造作に腰を下ろした。
 少し休憩をするつもりなのだろうか。なら紅茶を淹れてこよう。そう考えたペトラが退出しようとする前に、リヴァイが窓の傍にいたペトラを見てからソファの空いた空間を一瞥した。
 ……隣に来いと示している?
 自分に都合良くそう解釈したペトラは結構な隙間を開けてそこに座った。そしてその選択は間違っていなかったらしい。
 しかしこんな真昼間と呼ばれる時間から部下としての立場を踏み外すわけにはいかない。そう思って取った距離を、彼はどう取ったのだろう。
 ほんの少し気になりながら横を伺うと、リヴァイは気だるそうに腕をソファの背に乗せていた。
 兵長は目の下の隈も取れてないしお疲れなんだろうな。少しでも何かの役に立ちたい。いつだってそう思っているのにペトラは未熟過ぎて全然だ。気力だけならあるのに。自分に対する失望の溜息を吐きたくなってしまうけど、それはこの部屋を出てからだとぐっと息を飲み込む。
 リヴァイの前で沈んだ顔なんて見せられない。心配を掛けてしまうのかは不明でも、ペトラに関することで少しでも煩わせたくない。
 努めて平静を装っていると、リヴァイが口を開く。
「俺にはあまりわからんが、女ってのは若いと言われた方が喜ぶんじゃねえのか? 年齢を訊くと拳を飛ばしてくるようなおっかないのも調査兵団にはいるが」
「そりゃオルオみたいに老けてるなんて言われるのは論外ですけど」
 しかしペトラが言いたいのはそういうことではないのだ。彼にだけは年についての諸々を口にされたくない。所謂女心だが、リヴァイは彼自身自覚している通りに、どうもそういったことには疎いようだ。だからペトラは主張する。
「私、兵長にだけは若いなんて言われたくないです」
「……それは、俺が年齢より若く見えるらしいからか?」
 濃色の瞳で真っ直ぐに射抜かれながら問われ、ペトラはぼそりと呟く。
「違います。お前はまだまだ子供だって言われてるような気になっちゃうんです」
「俺はガキは抱かねえ」
「へっ……」
 予想外のことを言われたペトラは不安が吹き飛ぶ以前に羞恥が頂点に達した。
 確かに彼とはそういった関係を持った。いや、今も持ち続けている。何度も何度も彼の部屋で共に夜を過ごしたし、熱が抑えきれずに人目の届かない場所で求めあったこともある。
 けれど、そんな直接的な言葉を言われてはきちんと女として見られているのだと安堵が押し寄せて来る。
「兵長にとっての私は、小娘以下の存在に決まってるって、長い間そう思ってました」
「お前、言外に俺がおっさんだと責めてんのか」
 そうは言いながらも、特に気を悪くしたようには見えないリヴァイとこんな風に軽いじゃれあいのような会話を繰り広げれるのがペトラには嬉しい。
「そんな失礼なこと思ってないです」
「そうか」
「はい」
 大きく頷くと、リヴァイの瞳に宿る光が少し和らいだ。
 ひょっとして、兵長も私との年齢差を気にされてた?
 訊きたいが、問えばまた年齢のことに話題が逆戻りしてしまう。だからペトラは違うことを口にしようとするが、先にリヴァイが言葉を続ける。
「しかしな、若くて元気で可愛いと言ってやっても喜ばないとは、お前はどうなってんだ」
「えっ?」
 そんなことを言われた覚えの無いペトラは少し首を捻り、彼との会話を反芻し、『お前も充分そうだろが……』との発言を思い出した。その途端、頬がじんわりと熱を持つ。
 あんなついでのように言われたら、なかなか気付けないじゃないですか。でも、甘い言葉を一つも口にしない彼がペトラの言葉に被せてでも可愛いと告げてくれたのは、とっても嬉しくて心が弾む。
 兵士として過ごしているペトラには可愛い要素は無用だし、使命を果たして生き延びるにはもっと大事なことが多すぎる。わかりきっているのに、彼の前でだけは女であったり可愛くありたい。
 口に出していないのに、ペトラの思考は彼に見抜かれてしまったらしい。
 頬を染めて視線を床に落としているとソファ上での距離を詰められた。
「お前がガキ扱いされたくなくて、俺の前では背伸びをしてたのは知ってる」
「は、い」
 稚拙な態度を知られていた羞恥にじりじりと焦げつきそうになりながらペトラはますます俯く。
「兵士としてのお前は、もう何度も壁外調査を生き延びた実力と運を兼ね備えた有能な部下だ。ガキじゃねえ。……そして女としてのお前は、俺に我儘の一つ言わねえし、何も求めたりしねえ。腐りきった憲兵団の女兵士は、上官との関係を盾に優遇措置を要求したりするってのにな」
 リヴァイはそう評価してくれるが、ペトラ自身は己のことをそんな風には思えない。
 壁外調査では心が何度も折れそうになった。そんなペトラの支えになったのは、いつだって誰よりも優雅に立体機動装置を操り滑空するリヴァイの存在だ。
 どれだけ絶望的な状況でも、彼を想うだけで必ず生き抜いてやると足掻けた。
 生涯消えない深い傷を負っても、滲み出る汗と泥に塗れても、不甲斐無く零れる涙で頬を濡らしても、まだまだこの先誰よりも気高い背を追いかけていたい。強い願望がペトラに勇気と力を与えてくれた。
 そんな風に密かに想うだけで報われなくて構わない。リヴァイの近くにいる日々を過ごせるだけで幸せだった。なのに、彼と肌を重ねて熱を共有する悦びを知ったペトラは貪欲になってしまった。
 一度だけでも共に過ごせるのが夢のようだと思っていたのに、一夜だけじゃ嫌だとはっきりと自覚した。そして浅ましく関係をせがむ前にまた求められ、何度も応じて彼の時間を独占して甘さに浸り続けている。何の約束も言葉も与えられていないのに、誘われるのが自分だけであると自惚れてしまっている。
 本当は物分かりなんてちっとも良くないペトラの本音を知られたら、きっと呆れられてしまう。
 二人で夜を過ごしている最中は、いつまでも夜が明けなければいいと思っているなんて。
 朝が訪れきる前に自室に戻りながら、先の見えない関係に、次があるのか不安に思っているなんて。
 必死に大人のように振る舞い笑顔を見せて、一人寝の夜を幾夜も越えて次の逢瀬を待ち望んでいるなんて。
 言葉は与えられなくとも、情熱的に触れられて溶かされてごすことを赦されてきて、その途方もない贅沢さに心を震わせているペトラは、今のところは私的な時間以外ではどうにか部下としての立ち位置を履き違えずにいられている。
 上官と部下としての一線を越えたのに、直属の部下としての立場も守りたいし役に立ちたいなんて、我儘も過ぎる。
 だからこれ以上を望んではいけない。執着は強さだけでなく弱さも招くのだから。そんなのはわかりすぎるくらいわかっている。
 それに彼の為ならペトラ自身を犠牲にすることに躊躇いはない。
 けれど可能な限り生き抜きたい。どれだけ言葉を尽くしても、彼に向けて文字で覚悟を残しても、ペトラの生死に何の関与がなくたってきっと責任を負ってしまうだろうから。
 ペトラの覚悟は彼に負わせたくないのに。
 義務と願望とで乱れた物思いに浸っていたが、ふと気付くとリヴァイの視線が注がれていた。
「女ってのは、侮れねぇな。こんな近くにいるのに、知らんうちに成長してやがる。そんな顔、いつの間にするようになった」
「そんな、顔?」
 ペトラは軽く首を捻る。自分がどんな顔をしていたのかわからない。けれど、物欲しげな表情を浮かべていたような気がして仕方ない。
「自覚なしか」
 少し呆れたような声で言われ、困っているとリヴァイが立ち上がった。
 私的な時間はこれで終わりだと態度で示された。
「後少しだ、集中して片付ける」
「はい。執務が終わった頃に紅茶をお持ちしますね」
「ああ。頼む」
 椅子に戻り、書類に目を落としたままのリヴァイの姿を映しながら退室したペトラは扉をそっと静かに閉ざした。
 兵長が仕事を終えられたら、とびきり美味しい紅茶を淹れてさしあげなくちゃ。そしてその役目がずっと自分担当でありたい。
 ペトラの時間と運命が彼の近くに添える限りは、人類に捧げた心臓以外の全てと想いをリヴァイに捧げ続けるのだ。

SCC関西20の無配
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