鮮やかな残香


人里から離れた禁漁区に建てられた山小屋には、滞在人数に釣り合わぬ不自然な静寂が満ちていた。
日中に行ったエレンの硬質化についての実験は芳しくない結果を残し、鉛のように重苦しい空気に包まれつつ夜が更けていく。何度も繰り返した巨人化によって精神も肉体も酷使した当人は意識を取り戻していない。
そしてリヴァイが新たに班員に選んだエレンの同期の調査兵達は、所定の位置で見張りに就いているいる者、与えられた部屋で休んでいる者それぞれだ。
その状況の中、リヴァイは休息を取らないまま外の気配を確認後に食堂に入った。そこはリヴァイにとって清掃が行き届いているとはとても言えないような不満足な状態だが、食卓の椅子を引いてどさっと座り込む。
彼が軽く伏せていた視線を移動すると、食卓に置かれていた紙束が目に入る。
それは実験の計画と実行、その結果の検証を担当している分隊長ハンジの副官であるモブリットが今回の記録を残すために描いたスケッチだった。
モブリットの絵は何度も見ている為に彼の模写の腕に関しては知っている。それでも手に取り眺めた彼の口からは率直な感想が零れる。
「上手いもんだな」
荒事と違い絵心とは縁の無いリヴァイは、一番上の紙に描かれた巨人化したエレンの線画を見てぽつりと呟き紙を一枚捲ると、調査兵団が生け捕りに成功し、ハンジによってソニー、ビーンと名付けられた二体の巨人が捕縛された絵もあった。
人類の天敵である彼らは鋭い刃で斬られても突かれても表情を変えず、驚異的な回復能力ですぐに傷は修復される。その巨人の謎に満ちた正体を知る為に、リヴァイを含めた調査兵団の団員は危険な領域である壁外へ何度も挑んできたが、奴らは人間だった可能性が濃厚らしい。
何故人が巨人へと変化するのか。何故人を喰らうのか。解明できない謎に振り回されている上に、敵は巨人だけではなく何人もこの手で殺めた。それでもリヴァイは歩みを止めるわけにはいかないのだ。

リヴァイが何の気なしに次の紙を見ると、そこにはざっくりとした筆遣いで描かれた、第五十七回壁外調査に備えて作成した特別作戦班の亡き部下四人とエレンが、和気合い合いと談笑している姿があった。
旧調査兵団本部で特別作戦班の兵士が待機中、モブリットはハンジの副官兼、暴走の制止役として滞在していた。その時に描いたのだろうが、いつの間に。
そういえば、とリヴァイは思い出す。
彼女がモブリットに『今度機会があれば私の絵も描いてみてください』と言っていたのを。
そしてすんなりと快諾されていた。
けれど改まって被写体になるのは緊張するとも。だから普段の兵士としての姿をお願いしますと。
リヴァイは彼女の姿を探して紙を何枚も捲る。それらの被写体にエレンが多いのは、彼が巨人化能力を有しているからだろう。リヴァイは全ての絵を時間をかけて眺め、そこに描かれている兵士達の殆どがもはや生者ではないことを心に刻み、どれだけ泥に塗れようとも己の手を汚そうとも、彼らの目指してきた道を進み続けることへの決意を改めて強めていく。
そして捲る度に動きを止めていたリヴァイの指が、最後の一枚を見た途端に紙に皺が寄る程の力が入る。
そこには、リヴァイの兵士にしては小柄な後ろ姿とティーポットを持ちカップに中身を注ぎながら淡く微笑むペトラが描かれていた。
そのラフなスケッチはあの古城での一時を描いたものだろう。
紙の上にそっと指を滑らせるが、当然温もりは伝わらない。
柔らかそうな頬のラインを指先で辿ってみても、あまり質の良くない紙のざらつきしか感じられない。
彼女の生の一瞬を再現された絵をリヴァイは食い入るように見つめる。
けれど。
「ペトラはもっと……」
柔らかな笑みを向けてくれた。
澄んだ瞳にはリヴァイへの信頼に溢れた光を宿して煌いていた。
それらはもう二度と見ることも触れることもできない。
リヴァイにはペトラとの思い出になるような品は遺されていない。上官と部下として接して過ごした時間の記憶だけだ。特別な関係を持たず、未来に対する約束も交わしていない。
丁寧に淹れられた紅茶の味、傍でそっと気遣って告げられた言葉とふわりと鼻を擽ったペトラの香りは今でも鮮やかに思い出せる。
他人に隙を与えるのが嫌いなリヴァイが長椅子の上での僅かな眠りの間、微睡みに紛らせた甘えを年下の部下に見せた。
リヴァイ記憶の中の彼女は未だ薄れてはいないが、やがて時が過ぎればその面影も徐々に薄まって遠ざかってしまうのだろうか。
過去を振り返らないことと忘却は同じではない。
けれど優しいそれらに浸るには、この世界は残酷過ぎる。
失われた過去を悔い、温かな思い出に浸るような時間の過ごし方を得る資格はリヴァイにはない。
ドブのような空気を肺に吸い込み胸の奥に私情を封じ込め、紙の束を卓上へと戻したリヴァイは今夜も安眠と優しさと無縁の時間を過ごすのだ。


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