この先は望まない


私は人類の為に心臓を捧げた調査兵団の兵士として日々過ごしている。
それなのに、数日後に迫った壁外調査の事を考えていたら眠れなくなった。
何度もあの残酷な世界で死に物狂いで戦って生き抜いてきたのに、どうして今更こんなにも不安になるんだろう。
分からないまま喉の渇きを覚えて給湯室で水を飲んで一息つけば、月明かりがとても眩しい事に気がついた。
今夜の月はほぼ真円だ。その輝きに誘われるように私は宿舎から外へ出た。
目的も無いまま歩いていると、気持ちが落ち着いてくる。

兵団の厩舎裏にある、馬達が喉を潤す小さな池には月が映り込んでいた。
手の届かない遥か彼方、翼を持つ鳥でも辿りつけない夜空に浮かぶ孤独な月が、こんなに近く、手に届くくらいな場所に。
時折風で揺れる水面の波紋がその形を揺らしている。
ただじっと見ていると、水面に映る私の隣に人影が増えた。
「こんな時間にこんな場所で何してる、ペトラ」
耳を打つ兵長の声に、私の鼓動が跳ねた。
私が密かに恋慕っている相手であるリヴァイ兵長がどうしてこんな所に。
「眠れ、なくて」
「お前、自分の性別を忘れるな」
そう言われて自分を見下ろせば、頼りないワンピースタイプの夜着しか身につけてない事に気がついた。
部屋を出た時には外をうろつくなんて思っていなかったから、上に何も羽織ってない。
「体を冷やすな」
その言葉と共に、温もりの残る兵長の団服のジャケットを肩に掛けられた。
「あの」
「貸すだけだ。後で返せよ」
「……ありがとうございます」
素っ気なく短い言葉と共に時折寄せられる優しさに、私の中でますます彼への想いが増す。
「兵長はどうしてここに?」
「……ちょっとな」
珍しく曖昧な言葉を口にする兵長に私は首を傾げるが、それ以上の返事は戻って来なかった。
兵長のジャケットに袖を通せば、身長は殆ど変わらないのに肩幅は全然違って、その差に妙に鼓動が乱れる。
「洗ってからお返しします」
「そのままで良い。それより戻らないのか?」
こんなに心臓がドキドキしていたら、部屋へ戻ったって眠れる筈がない。
「後少しだけ、歩いてから帰ります」
「……そうか。なら付き合う」
戸惑う私に構わず、兵長が歩き出したので私は後に続いた。

そのまま二人でただ静かに月夜の中を歩いた。一言も交わさなくとも、その沈黙は気詰まりなんかじゃなく、風が揺らす草の音と密やかな虫達の声に混じって、互いの足音が耳に届く。
時折私を振り返って目が合うとすぐに前を向く兵長の背中だけ追いかける。
手を伸ばせばすぐに触れられる。水面に映った月よりも近くに兵長が。
この先は望まないから、もう少し、あと少しだけ。
私は自分から戻ると言いだせないまま月が雲に覆い隠されるまで兵長の後を歩き続けた。その間に、私の中にあった不安は消え失せた。

月の光に導かれたあの一時は、私の秘めた想いと共に胸に抱えている。
草を踏み締めた足音も、時折聞こえた彼の息遣いと物憂げな眼差しすら深く私の中に刻まれてる。
きっときっと忘れない。
ずっとずっと忘れない。



手放せない恋情


壁外調査が迫るといつもこうだ。リヴァイの机の上は確認すべき書類が溢れかえってしまう。どうにか一通り目を通し終えた頃には、夜もすっかり更けていた。

ペトラの淹れた茶が飲みてぇな。
そう思いながら月明かりだけを頼りに兵団の中庭の井戸に行き、バケツを引き上げ新鮮な水を飲む。頭をすっきりさせた時、月明かりの中白くふわっとした何かを視線の端で捉えた。
妙に気になり目で追うと人の姿だと分かった。何故だか視線を逸らせないままずっと見ているうちに、それが自分の部下として傍に置いているペトラだと気がついた。
こんな時間にあんな薄着で何をふらふらしていやがる。
ひょっとして、これから誰かと逢うつもりなのかと思うと胸がざわついた。
ペトラに対して自分が部下として以上の感情を向けている事には気がついていた。だがそれは決して胸の内から出す気も報われる事も望んで無い。
それなのに、あの笑顔が誰か他の男にだけ向けられる日が知らないうちに来ていたのかもしれないと思うと苛立つ。
下らねぇ男だったら承知しねぇ。

少し距離を置いて後を追ったが、ペトラは特に目的を持たずに歩いているように見られた。
そのうちに、ペトラは厩舎裏の池に近づきその畔に立ち尽くす。
どうにも不可解ながら、このまま夜着一枚で過ごせば夜風に体を冷やしてしまう。
躊躇いながら彼女に近寄り、声を掛ける。
「こんな時間にこんな場所で何をしてる、ペトラ」
努めて穏やかな声を出したからか、ペトラは咎められたように感じていないようだった。
「眠れ、なくて」
「お前、自分の性別を忘れるな」
そう言ってやれば、漸く自分が夜着一枚姿でいる事に気がついたらしい。無防備すぎだろう。俺以外の奴だったなら、そのまま食われてもおかしくねぇ。
「体を冷やすな」
俺は脱いだジャケットをペトラの肩にかけてやった。
「あの」
「貸すだけだ。後で返せよ」
「……ありがとうございます」
どうにか突っ返されずに済んで良かった、こんな悩まし気な姿はこれ以上まともに見ていられない。
「兵長はどうしてここに?」
「……ちょっとな」
お前の姿を見かけて、気になってずっと後を追ってきたなんぞ言えるか。兵士長なんだぞ俺は。

身長は殆ど同じでも俺の服はペトラには大きかった。鍛えていても、細く薄い肩はやはり女だからか。
「洗ってからお返しします」
「そのままで良い。それより戻らないのか?」
このままだと寝不足は間違いない。
「後少しだけ、歩いてから帰ります」
「……そうか。なら付き合う」
返事を待たずに歩きだすとペトラは大人しく付いてくる。その事に俺は満足した。

語る話題もなくただ黙って歩き続け、時折振り返れば月の光りを集めているようなペトラと目が合ってすぐに前を向く。
俺はペトラが何も言わないのを良い事に、戻ると言わず兵団の敷地内を歩き続けた。
傍にいるだけで、俺を癒して満たすのはペトラだけだ。何時からか、何故ペトラなのかは分からねぇ。多くの部下を率いる立場の兵士長としては好ましくない事だが仕方ない。
そのうちに薄く広がる雲によって月が翳り、恐縮するペトラに構わず俺は兵舎前まで付き添った。
俺から彼女へと向ける想いは、きっと恋と呼ばれる感情なのだろう。
秘めているそれはどうしたって消せそうにない。想うだけだから赦せと心の中で告げてペトラと別れた。

先程まで彼女を包んでいた俺のジャケットにはペトラの温もりと匂いが移っていた。
夜着姿のペトラの細い肩に女らしい曲線、甘く香る匂いに澄んだ声、小さな吐息。
それら全てが俺の中で溢れてもう眠れない。
今日も俺の目の下から隈は消えそうにない。

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