追憶の情景


エレンが第57回壁外調査まで約一月過ごした旧調査兵団本部の古城には、今でもまだ、リヴァイ班の先輩方の気配が感じられて。

それぞれ座る場所が決まっていた椅子。
食事当番で過ごした厨房。
水汲みに使用した井戸。
洗濯物を干したバルコニー
城中のどこに居ても、肺を満たす静かな空気ですら、逆に騒がしかった頃と対比して彼らの存在を思い出す。


三日後、中央に引き渡される。
その機に乗じた計画を実行するまで、エレンとリヴァイはこの城で待機することになっている。


――兵長はここで過ごすのが辛くないんですか。


喉元まで何度も出かける言葉は、エレンだけは口にしてはならないと感じている。
責める言葉も喪失を惜しむ声も一度も発しないリヴァイにそんな事を言ってどうなるのだろう。
自分が先輩方と過ごした何倍もの時間を彼らと共に過ごし、あれだけ慕われていた人だ、言葉にしなくても、その心の中ではきっと痛みを覚えているに違いない。
そんなリヴァイを前に、エレンは感じている胸の痛みも表に出すことすら躊躇われた。
あの時ああしておけば。そんな事をいくら考えても、起こった出来事は覆らず、喪われた命は戻らない。

思考の波からどうにか抜け出たエレンが厩舎で馬の世話をしようと向かうと、その場にはリヴァイが居た。
声を掛けようとしたエレンの動きが止まる。
兵長が手を触れているあの馬はペトラさんの……
馬の前で佇んでいる兵長はどこかここではない遠くを見ているようで。それはきっと……

急に強い風が吹き、草の匂いが鼻に届く。
その時、エレンの脳裏に在りし日の記憶が蘇る。



先程見てしまった光景から逃げるように速足で歩いていると、井戸の傍で芋の皮を剥いていたエルドに声を掛けられた。
「どうした、エレン」
顔を真っ赤にしているエレンを心配したのか、わざわざ手を止めて傍まで来てくれた。

「兵長と、ペトラさんが……」
そこまで言ってから、はっと口を噤む。あれはエレンの胸に秘めておくべき事なのではと、遅まきながら思い当ったからだ。
「……見てしまったのか」
何かを察したように苦笑するエルドにエレンは勢い込んで質問する。
「エルドさんは知ってたんですか。兵長とペトラさんが……兵長とペトラさんが……」
「落ち着け、エレン。あの二人が単なる上司と部下以上の関係にあるらしいとは知っている。はっきり聞いた訳じゃないが。ただ、グンタとオルオは気づいて無いだろうから誰にも言うなよ?」
言い含める様な言葉にエレンは頷きながらも口を開く。
「俺、驚きました。普段のお二人からそんなの全然感じなかったから」
「兵長もペトラも、公私混同するタイプじゃないだろ。で、何を見た?」
「厩舎裏の木陰に兵長とペトラさんが座ってて。何だかいつもと違う感じだと思ってたら、ペトラさんが兵長に顔を近づけて、その……」
「ああ、最後まで言わなくていい」
エルドに苦笑混じりに言われ、エレンはほっとした。あの雰囲気は、言葉で表現すると途端に安っぽくなってしまうように感じたからだ。


こちらには背を向けていた為に、ペトラはエレンの存在に気づいていなかったが、リヴァイは最初から気がついていた。それなのにペトラからのキスを避けようともしてなかった。
どこか別の世界での出来事を見ているような、現実味の無い光景を凝視していると、ペトラの後ろ頭に顔の半分程度隠されたリヴァイが、閉じられていた右瞼を開けた。そして目線が合ってぎょっとしたエレンを見据え、手で追い払う仕草をした。
数瞬の後、固まっていたエレンの時間が動きだした。
これは間違いなく覗き見だと自分の行為を理解し、ぎくしゃくしながら回れ右をしてなるべく気配を消しながら逃げる。
今は見逃されただけで、後で兵長に殺されるかもしれない、と怯えながら振り返ると、エレンを追い払ったリヴァイの右手はペトラの背に回されていた。二人は未だに密着したままでいた。
キスってあんなに長い間するものなのか?
経験の無いエレンには分からなかったが、あの二人の周囲だけ空気が柔らかく溶けているような気がした。


「エルドさんは、何を見たんですか?」
「……聞きたいのか?」
いえ、やっぱり良いです。そう言おうとする前に、エルドがぼそりと呟いた。
「まあ、お前と似たようなもんだよ。場所は違ったがな。あの二人は所構わずいちゃつくような事はしていないだろうから、単に俺らのタイミングが悪かったんだろ」
「俺、覗き見した罰として、兵長にぼこられるかもしれません」
「大丈夫だ。その時は俺がどうにかしてやる」
慰めるように肩を叩かれたエレンは、落ち着きある頼もしい先輩の言葉に少し元気が出た。
その後の午後のお茶の時間にリヴァイと顔を合わせたが、結局は何も言われずエレンからもその話は一切出さずに過ごし続けた。だが、知ってしまったからこそ気づいたのだが、リヴァイとペトラの間には一見甘やかな関係は見えなくとも、互いを見る視線や、お茶を用意し手渡す時のペトラの笑顔、受け取って一口飲んだリヴァイの緩む口元。静かに育まれている関係に、くすぐったい気持ちになって。
そんな二人を見る度にエレンの胸も温かくなっていた。

それなのに――



「どうした、エレン」
振り返ったリヴァイは、先程までの憂いに満ちたような佇まいは消え失せていた。
「暇なら、馬のクソの始末でもしとけ」
そう言い捨てて去ったリヴァイの背中をただ黙って見送るしか出来ないエレンは、二人の間に漂っていた温かで穏やかな雰囲気をもう一度見たい。切に願った。

 back top